毎週の説教メッセージ

off 光あれ

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説教:岩河 敏宏 牧師(埼玉和光教会)

創世記1:1-5

聖書の冒頭『はじめに、神は天と地を創造された』(口語訳;1章1節)とあります。なにゆえに神は、天と地を創造されたのでしょうか。神は天と地の創造を通して、創造主なる神と全ての被造物が永遠に繋がるための舞台を整えられたのです。私たちの居る地は、形なく(自己本位で)、むなしい(他の命との繋がりもない)。神はこの状態を放置されず、「光あれ」と言われます。聖書において光(神やイエス)は、常に闇(人間・私)との係わりの中で示されていますから、「光あれ」の言葉は神が私たちとの繋がりを回復する(見放さない)ための第一声なのです。普段の生活ではあまり意識していませんが、私たちの目は光がなくては物を見ることが出来ません。『あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。』(詩編119編105節)とあるように、神の御言葉が私の人生の道標なのです。加えて、聖書で“見る=わかる”とは、物体を目視して確認することだけを意味するのではなく、「世の光」であるイエスの存在を通して“見る=天を仰ぐ”ことにより、物事の本質に気付くことが期待されています(ヨハネ福音書9章1節~34節;11節、15節、18節の『見えるように』は『天を仰ぐ』マルコ福音書6章41節、7章34節)。創造主なる神やイエスは、私たちの弱さを知った上で認め、寄り添って下さいます。私たちの存在を大切に想い、見失うことが無いように、「光あれ」と言われていることに気付いて自分を大切にしたい。また,周囲の人をも大切に想い繋がる者でありたい。

off これはいったいどういうことなのだ

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説教:加藤 久幸 牧師

マルコによる福音書1:14-20

今日の聖書は、マルコ福音書では、イエスが会堂で教える最初の物語です。イエスが教えること(21-22)と、悪霊祓いをすること(23-27)の、2つから構成されています。そこに居合わせた人々の反応は、共通しています。22節「人々はその教えに驚いた」、27節「人々は皆驚い」たです。今日は悪霊祓いの方から触れますが、「会堂に汚れた霊に取りつかれた男がい」た(23)。イエスは、目に見えず、諸々の悪さをもたらす霊的存在、この世の諸力に対しても、向き合う方でありました。

汚れた霊はその男を通してイエスを「神の聖者」(24)と叫びますが、イエスが「黙れ…とお叱りになる」(25)と、その男は大騒ぎをし(汚れた霊は去り)その男は落ち着きを取り戻します…。「これはいったいどういうことなのだ」(27)。人々の驚きは今日の聖書の前半の、会堂でのイエスの教えにも通じています。「人々はその教えに非常に驚いた」(22)のです。マルコは、イエスの言動を「新しい教え」と表現しますが、それは前例のない神性・神の出来事を感じさせるということを表わしているように想います。マルコは、人々を(聖書の登場人物にも読者にも)「この人(イエス)はどういう方であるか」という、基本的な問いの前に立たせます。そして、自分で応えることを求めます。私たちも、イエスが言葉と行いで何をなさったのかを謙虚に学び、確かめ、この問いに応えて[従って]いきたいと思います。

off わたしについてきなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

マルコによる福音書1:14-20

1:14-15はイエスの活動の特徴を短くまとめたもので、イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられた時、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え始めました(14)。イエスは、近づく神の支配に、目を向け、聞き、注意を注ぐことを求めます。そして、近づく神の国(神の支配)に人々が入ることを求め、そのために他の人々にもそこに入るように招く人々を求めます。その展開が1:16-20に出てきます。しかしそこには、私たちが興味・関心を抱くような詳細な報告はなく、あるのは、イエスが招き、その召命に人々が従う(応ずる)ということだけです。17節後半の「人間をとる漁師にしよう」は、次のような意味であると想います。イエスは、自らを漁師にシモンたちを魚に譬え、イエスは言葉(網)を投げ彼らは神の支配の中にとらえられる…。とらえられた魚はある種の死を経験しますが、地上での新たな命を与えられ、イエスに従うことによって、イエスのように、人々を神の支配に招き入れる、人間をとる漁師のようにされていきます。関連してマルコ10:28-31は、私もイエスに従うことを第1とした時、後に家族や社会との関係の結び直しが起こったことを思いますが、ペトロの発言(28)は他人事ではありません。私たちは自分がしたことを持ち出す日常や惰性や誇りの中で、繰り返し、新たに、イエスの「わたしについてきなさい」との招きを、受けているのではないでしょうか。

off イエスの洗礼

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説教:加藤 輝勢子 牧師

マルコによる福音書1:9-11

イエスの洗礼については、マルコ福音書ではイエスの身分と権威を証ししています。イエスの洗礼の時、水の中から上がろうとした時、天が裂けてとありますが、イエスの死に際して、「神の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」15:38)と同じ語が使われています。「霊が鳩のように降って来るのをご覧になった」や「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということは、イエスだけに向けられているのです。ここでイエスは自分が何ものかであることを知ることになります。他の者は、イエスの語ることに耳を傾け、行うことをよく見ることによって真理を見出さなければならないのです。イエスの死を見守る百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」(15:39)というようにです。

福音書の洗礼という言葉を使っている場面は3つあります。1.ヨルダン川です。これはイエスの受洗です。2.「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」(10:38)では、「自分に死んで、神の復活の命によって生きる」ことです。3.「全世界に行って、…」(16:15-16)では、洗礼を授けなさいといいます。

洗礼は自分が神に従って生きるという表明だと思います。洗礼を受けた者としてキリスト・イエスに結ばれた歩み(ガラテア3:26)をしましょう。

off 知らなかったのですか

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説教:加藤 久幸 牧師

ルカ福音書2:41-52

私たちは、今日の少年イエスの姿を、どのように受けとめるでしょうか。菅原裕子「子どもの心のコーチング」(PHP文庫)を参考にします。菅原は、「子どもの成長はめざましく…その成長に気づかない親は、それまでの延長で、変わらず子どもの保護と支配を続けます」と語ります。巡礼の際、12歳になっているとはいえ、姿が見えなかったとなれば、探し回り、見つかった時には咎めるというのは、保護者として当然のことです。48節「なぜ こんなことをしてくれたのです。お父さんも私も心配して捜していたのです」。これに対する、49節の「…わたしが自分の父の家(神殿)にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」という、イエスの応えはわかりづらいかと思います。これまで、イエスの神的存在を告げたのは、他の存在(例えば天使やシメオン等)でした。しかし今日の場面では、イエス自身の認識と将来への意識は、家庭を越え、広がり深まり始めています…。イエスご自身は、この後、親の無理解(50)、やがては、人々・弟子の無理解にも直面しながら、歩まれました。また、今日の聖書には「両親に仕え」た(51)とありますが、彼の生涯は「無理解の人にまで仕える」歩みであったと思います。この道を自覚的に歩まれたイエスの歩みに触れながら、私たちも自分の生きるべき人生に向き合い歩んでいきましょう。だったのか。

off 東方の学者たち

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説教:加藤 輝勢子 牧師

マタイ福音書2:1-12

星の専門家である占星術の学者が東の方から来て、「ユダヤの王として生まれる方は、どこにおられますか。私たちはその方を拝みに来たのです」という言葉にペロデ王は不安を抱きます。エルサレムの人々もです。しかし、民の祭司長たちや律法学者はそのことを知っていました。「ユダの地、ベツレヘムよ、…」(6節)はミカ書5:1で言われています。知っていてもそのままです。キリストの知識から言えば、東方の学者たちは星の指し示すことしか知りません。それに対して祭司長や律法学者は膨大かつ正確な知識をもっています。ところがイエスに会いに行ったのは、礼拝を捧げたのはキリストに関する知識も持たない異邦の学者たちの方でした。ルカの記事も併せれば夜通し羊の番をしていた羊飼いと羊でした。

知ることと生きること、知識を持つことと礼拝をすることは同じではないのです。肝心なのはいかに多くの知るかではなく、どのような礼拝を捧げるかです。イエス・キリストを礼拝することは生き方を変えることです。人類の知恵と技術が飛躍的に発展している現代において、多くの人がそれらのみに過剰に信頼をおいていますが、東方の学者たちは、そのような過信を戒め、すべての人が救いのためには神の導きが必要としていることを証ししています。私たちも東方の学者たちのように、礼拝をささげ、み言葉に生きる者でありたいと思います。

off 誕生

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説教:加藤 久幸 牧師

サムエル記上2:1-10

5節に注目しましょう。「飢えている者も」「子のない女も」ではないのです。富み誇る人々が押し付けていた飢えや抑圧が彼ら自身のこととなり、「パン」を求める者となり「衰える」者となる、そのような変化・逆転が起こるというのです。このことを行う主は…乱暴に映るかもしれません。しかし、その事態になって、人々は現実を直視するのではないでしょうか。私は、主の優先順位があり、最終的に公正と平和に至らしめるのだと、想います。この状況は、社会の境界線の向こう、排除され滅びに直面する人々の「希望」を問題にしています。このような人々や共同体を、心に留め、介入する意志を持つ方はいるのか。2節を、新しく刊行された「共同訳」は、主のような方は他にいないと、3重に告白するように訳出しています。この主は、争い(4)、食べ物(5)、そして子ども(5)に関して、現実には信じられない変化・逆転をもたらしてくださると、歌います。6節では、究極の贈り物についても、語っています。「…陰府に下し、また高めてくださる」。復活をも示唆します。8節後半では、貧しい者・弱い者の希望は、大地・世界の創造者なる方にあると歌います。10節では、危機のイスラエルに王・指導者が与えられることを歌いますが、この歌は、不妊や滅びに向き合っている者に、「命」を与え、新たに生きるようにしてくださる方がいますと、高らかに歌います。教会も、この主を喜び祝います。

off 慰めよ

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書40:1-11

聖書にも「天上の会議」の記述があります。それは、特定の出来事の究極の意味を求める地平です(例:ヨブ記1-2章)。今日の40章も「天上の会議」の地平から始まります。1節「慰めよ…」という命令は複数形です。真の神が、天上の会議にいる者たちに、イスラエルに慰めと解放をもたらすように命じているようです。イスラエルが損失と恥をこうむった争いの時は、過ぎました。争いの終結は、幸運や偶然ではなく、時が経過したからでもありません。今のイスラエルに、「苦役の時は今や満ち、彼女(エルサレム)の咎は償われた」「罪のすべてに倍する報いを 主の手から受けた」(2)と、主が宣言されます。3節「主のために、荒れ野に道を備え」よとの命令も4・5節でも、天上の象徴的な言語が続いているようです。「主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る」(5)。これから始まる出来事は、神の主導によって展開することが、告げられています。第2イザヤも、畏れつつ「主の風が吹きつけたのだ。この民(私たち)は草に等しい」(7)と告白したところ、「わたしたちの神のことばはとこしえに立つ」(8)という天の声が響きます。6節「呼びかけよ」(単数命令形)と命じられた第2イザヤは、「神のことば」に押し出され、「良いしらせ」(9)を伝えるため、動き始めます。「見よ、あなたたちの神」(9)は「力を帯びて来られ」(10)「羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め」る(11)方として来られると、主を伝えます。

off 主の言葉を読み聞かせなさい

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説教:加藤 久幸 牧師

エレミヤ書36:1-10

ヨヤキム王の治世第4年(605年)、エレミヤに主の言葉が臨み(1)、「あなたに語ってきた言葉を(627年-)を…書き記しなさい」(2)と命じました。34章・37章以降も、36章から10年位経った出来事を記しています。歴代の王はバビロニアに反逆し、586年エルサレムは再び陥落しユダ王国は滅亡します。今日の「書き記せ」(2)と言われた本体は、私たちが手にしているエレミヤ書として伝えられています。エレミヤの預言は何を語ったのか。また、国が亡ぶ20年前に起こった今日の出来事は、何を意味するのか。主は「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて…悪の道から立ち帰るかもしれない」(3)と語りますが、この時エレミヤは「神殿に入ることを禁じられていました」(4)。というのも、エレミヤは、ヨヤキム王が即位した後、「神殿の破滅」を預言した(26:6)ので、神殿に近づくことができなくなりました。エレミヤはバルクを呼び寄せ「断食の日に…すべての人々に読み聞かせなさい」と命じました(5-6)。実際の読み聞かせは、翌年のヨヤキムの治世第5年(604年)で、この時の断食は頼っていたエジプトの敗北(605年)を嘆くためでした…。エレミヤたちは、命の言葉である神の裁きと救いを告げ知らせます。エレミヤが預言を禁じられた故に、その預言は書き記され、多くの人々に読み聞かせ、伝えられることになりました。神の言葉は、今も、神に従うことを、求めています。

off 恐れるな、思い起こせ

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説教:加藤 久幸 牧師

イザヤ書51:1-11

51:1~52:12までは、第2イザヤが、それまでの預言を振り返り、要約している箇所とも言われています。そこには、「[わたし(主)に]聞け」という言葉が、4度語られます(51:1,4,7,21)。そして、この箇所には、「奮い立て、奮い立て」、「目覚めよ、目覚めよ」、「立ち去れ、立ち去れ」という、行動を促す2重の言葉が組み込まれていきます(51:9,17,52:1,11)。内容的には、先ず、神が救いの行動へと呼び出され、次に、神と同じように、人々が呼び出されるという展開を辿ります。

51:9-11節は不思議な箇所です。第2イザヤが、主が人々に手を差し伸べ、人々を呼び戻すことを諦めない方であることを、人々に思い起こさせます。そればかりか、彼は主に対して訴えているようにも想えます。カオス(混沌)の力を退けることによって世界を創造し(9)、隷属から人々を解放し(10)、そして今、捕囚の人々を贖いシオンへと出発させる用意をする(11)のは、あなたの力でしかない! 10節の「あなたではなかったのか」というのは、過去を思い起こしつつ、「今、あなたは どこにいるのか?」(主よ来てください)という訴え・確認であるかのようです。

教会の暦では、アドヴェントから、新しい時が始まります。この2年間、世界の人々は、コロナ感染拡大の影響を受け、様々な制約や捕らわれの中にありました。私たちも、主の言葉によって、新たにされつつ、歩み出していきましょう。